石引通り               戻る

 加賀藩草創期、金沢が城下町として整備されつつある時期に、金沢城の東南・小立野台地の先端に近い位置に屋敷を構えていた利家以来の藩の重臣・篠原出羽守は、その娘を、同じく藩の家臣・本庄主馬に嫁がせることになった。本庄屋敷は、小立野台地から犀川方面の低地に下る途中、ちょうど篠原屋敷の崖下に当たるところにあったが、そこにいたるには大きく迂回しなければならなかった。そこで、娘を思う出羽守は、輿入れにあたって、自らの屋敷と本庄家を結ぶ近道としてわざわざ坂道をつけたといわれています。そのため、この坂道がやがて嫁坂とよばれるようになったということです。
 
 当時、篠原屋敷のある小立野台地の南西側の、犀川に続く低地、すなわち嫁坂の坂下は、徳川将軍家からの目付けとしての役割を担いつつも、前田家のために藩老として大いに働いた本多家の広大な屋敷地となっておりました。嫁坂がつけられてしばらく後、この本多屋敷と篠原屋敷を直接結ぶ位置に、小立野と笠舞をつなぐ役割をもたせたもう一本の坂道がつくられました。嫁坂のような急ごしらえの、何とか人が通れるという坂ではなく、物資も通すまともな坂道として、藩の政策上作られたものとされています。嫁坂より新しいという意味で、小立野新坂あるいは笠舞新坂とよばれたらしいのですが、それが現在では省略されて単に、新坂となっています.

 篠原家と本多家の存在の名残として、坂上は出羽町、坂下一帯は本多町と呼ばれてきましたが、悪名高き町名変更のため、出羽町は石引町に統一されてしまい、その名称はバス停に残るだけになっています。幸い、本多町の名称は残されて、町名自体からも歴史を感じさせております。

 新坂と嫁坂の合流点(それぞれの坂の上り口にあたります)から新坂を登り始めて中程にかかりますと、それまでは、小立野台地の南西側斜面を本多町側から石引に向けて斜面に沿った形で上ってきた坂道が、急角度で屈曲し、頂上に向けて斜面を直角に一気に上る形になります。車が
1台かろうじてエンジンをふかしながらのぼれるくらいの急かつ狭い坂道です。またこの坂の上り口周辺は、広い区域を占める本多町でも、藩政期以来の狭い道ばかりの地域で住宅も密集しており、よほどの用事をかかえている車以外はまず侵入してきません。そのため都心に近い割には静寂を保っていて、一面で金沢らしさを残している地域ともいえると思います。
 新坂は、現在では車はもちろん、通行人もまばらな状況ですが、江戸期には共に前田家の家老を勤める本多家や篠原家の侍達が往来したであろうし、明治から昭和にかけては、坂の上の出羽町練兵場で訓練に励んだ、第九師団の兵隊達が通行したであろう重要な坂であったのではと推察しております。この第九師団は、日露戦争のさいには、有名な乃木希典将軍率いる第三軍に属して旅順攻略戦で多大の死傷者をだしながら奮戦したことでも勇名を馳せた師団ですが、師団の兵隊達がこの新坂をあえぎながら登りつつ、坂の上の雲を眺めていたかもしれないと、司馬遼太郎ファンの私としては勝手に想像しております。

  

 新坂と嫁坂の合流地のすぐ近くに友人の家があった関係で、小学校の時には、この近辺でよく遊びました。嫁坂は舗装などもちろんあるはずのない山道同様で、中腹の広くなった所等には野イチゴが群生していて、よくつまんで食べておりました。食べてはいけないと教えられていた蛇イチゴも、時にはかまわずに口にしてお腹をこわしていたこともありました。今考えてみると、いくら昔といっても、一応市街地と言っても良いような場所なのに、よくあんなに自然が残っていたものだとあらためて感心しておりますが、おかげさまで、その自然を十分に満喫して遊んでいたように思います。先日、何十年ぶりかでこの嫁坂を歩いてみたのですが、都会の趣味のいい静かな散歩道といった感じの、階段のある坂道に変身していました。もちろん完全舗装で、一言でいうとお洒落、恋人達にはピッタリ。でも、子供たちの遊び場にはなりえない所となっておりました。