石引通り             戻る

 加賀前田家の菩提寺・宝円寺のもう一つ奥、宝町の行き止まり高源院の前を天神町に下る急坂が馬坂です。急なことはもちろん、道幅も狭く屈曲していることからも車の通行は不可能です。藩政期に坂下の田井村の農民が小立野から秣を積んだ馬を引いてこの坂を下った事からその名が付いたといわれています
 坂の中程には、眼病に効くと言われている不動明王像や像のためのお堂、弥三郎の碑があります。

 石引・宝町界隈の子供達が、椿原天神の祭礼に通うための近道でもあり、中腹の不動明王像の祠には昔は湧き水が豊富に出ていて、ここで一息入れて水を飲み、ついでにお不動様に手を合わせるのがお祭に通う子供達なりの儀式でした。しかし今では、雫が垂れているという程度にまで水が枯れていますので、そんな儀式も廃れていると思います。
 宝町側の斜面に張り付くように建っているお不動様のお堂には、上部の方にその口から湧き水が盛んに流れ落ちていたはずの竜神様が顔を出しており、そのまた上にも小さな祠があって、なかなかに神秘的な雰囲気があります。あたりには、神さまのお使いとされている狐ならぬ狸やハクビシンと思われる明らかに犬や猫でない小動物が時に顔をあらわすと近所の人に聞きました。宝町から天神町にかけての傾斜地には緑がかなり残っていて、都会の中の格好の棲家になっているのかもしれません。


馬坂不動明王像

 坂の上の高源院の所管で、馬坂の中腹に位置するお堂のいちばん上部の祠の中に安置されている。すぐ前に竜神像が置かれていて、その口から流れ落ちる冷水が昔から眼病に効くとされて信仰を集め、水を飲みに来る人がよく見られたが、今では水はほとんど枯れて雫程度にまで減っているためか、訪れる人が減っているという事です。毎年
728日には例祭が催されています。


弥三郎供養碑

 不動尊堂の左脇にあり、「天保九年 俗名大工弥三郎 南無阿弥陀仏」と碑文にあります。伝承によると、天保九年(
1832)椿原神社で火災があり、その際、近所の住人・大工弥三郎は御神体を救い出さんと火炎の中に飛び込み、御神体はなんとか救出できたが自身は焼死してしまった。その死を悼んだ天神町・馬坂町の住民がその年四月に建立したと伝わっています。