石引通り                                                           戻る

 加賀藩三代藩主・前田利常の正室珠姫の菩提寺として、金沢城石川門から石引通りを南東約1,5kmの現在地に元和九年(1623)に創建されたのが、曹洞宗金龍山天徳院である。その後、元禄六年(1693)には五代藩主綱紀が、先代藩主光高の五十回忌供養のため10年をかけて全堂宇を中国・明式に造営建築し、堂々たる大伽藍を完成させた。しかしながら、明和五年(1768)二月の火災で多くが焼失し、当時のままの姿で現在に残っているのは山門のみである。山門以外の本堂・庫裏等は、明和六年(1769)十二月に、十代藩主重教の手によってわずか70日で再建されたという当時の建物である。
 
 当初院内に祀られていた珠姫の遺骨は、寛文十一年(1671)、夫利常の眠る野田山の前田家墓地に改葬された。(天徳院パンフレットより)

 珠姫は、NHK大河ドラマ「利家とまつ」でもふれられていましたが、徳川二代将軍秀忠の娘、すなわち家康の孫にあたり、徳川幕府草創期に、外様の大藩前田氏を取り込むための政略結婚の犠牲となってわずか三歳で金沢に輿入れしてきました。以来二十四歳で早世するまでの、典型的な戦国の世の哀しい生涯が、人形劇「からくり人形天徳院物語」として院内で上演されています。

 天徳院は、前田家との関連など由緒あるお寺の多い小立野地区の中でも、住民にとっては特別のお寺ではないかと思います。二層の山門やその山門に左右にどっかと構える仁王尊蔵はこの地域では天徳院だけですし、何より、広い境内は、一度は子どものころ遊んだ経験がある身近な場所なのではないでしょうか。私も、缶けり、ビー球、三角ベース、バドミントン、陣取り、ペッタ、水雷艦艇、ドッジボール、雪合戦その他屋外のありとあらゆると思えるほど多種の遊びをここで体験しました。今は、子供達が忙しいせいか、お寺さんのほうで規制しているのか、その両方なのか、境内で子供達が遊んでいる姿などついぞ見なくなっており、かわりに、昔はほとんど見かけなかった観光客の姿が目立つようになっています。

 天徳院でもう一つ私の記憶に鮮やかなのが、山門のまだ外側に建っていた 総門の存在です。現在は石碑があるだけですが、昔はここにも二層の門がありました。この門を通って境内を横切れば小学校への近道となっていましたので、毎度お世話になっていたのですが、昭和四十年ころの台風でまさにぺしゃんこに倒壊してしまいました。大音響とともに。
 二、三日後、跡形もなく消え去った門の跡に立った時は、さすがに兵(つわもの)どもが夢の跡といった感じが、子ども心にもしたのを思い出します。お寺ですから、つわものどもはおかしいのですが・・・。
 それ以後、何年たっても何度おとずれても、あの門があったらなーとどうしても思ってしまいます。居合わせた観光客には、ここはもっと立派やったんやぞーと教えたくてむずむずしてしまいます。
 寂しさといった情緒的な部分も大きいのですが、もっと現実的な点でも私などは惜しいなーといつも感じています。二層の門が二棟連なりその奥にさらに並んで本堂が建つという姿は、地方の寺院としてはそうは見られない貴重な光景ですし、もっと注目されて観光客をさらに集め、沈滞気味の我々の商店街にも活気をもたらしてくれるのではと思ってしまうのです。なんとか再建できないものなんでしょうか。