サイドシートの君へ 受付で教習車番号を確認すると、七美は思わずため息をついた。 「あっ、眉間にシワ」志穂が笑顔で駆け寄ってくる。 「志穂。私、また岩田の車だ。なんでいつもこうなるの。ほら見てよ、ノートからあふれ出しそうな岩田のサイン」 「なにこれ、補習マークの乱れ咲き? でも、なんだかんだいいながらも、もうすぐ終了検定でしょ」 その言葉に七美の胸は高鳴った。免許が取れたら真っ先に、圭吾をドライブに連れ出そう。彼女と別れて落ち込んでいるみたいだから何とか元気づけてあげたい。そんなことを考えていると、隣で志穂が吹きだした。 「そうそう、岩田といえば。さっきまで学科を受けてたんだけどね。その中でなんか面白いことを言ってたよ。教習中に、サイドブレーキを引こうとしてシートを倒した生徒がいたって。もう教室中大爆笑」 「えっ・・・・・・。それ、私のことかも・・・・・・。」 七美は顔を曇らせた。教習車に向かう背中に志穂が声援を送った。「ドンマイ!」 やがて、終了検定が終わり、路上での教習が始まった。その日、信号待ちをしていた七美は、対向車を見て思わず息を止めた。圭吾がいる。サイドシートには茶色いロングヘアをしきりにかきあげている女性。七美の心臓の音が、にわかに高まった。女性が圭吾の口元に、飲みかけの缶ジュースを差し出す。 「青だぞ」岩田の怒声で我に返った七美は、慌てて車を急発進させた。 「おい、逆走する気か? 」車が、狭い通りにさしかかった時、再び横から罵声が飛んだ。手の平がいつにもまして汗ばんでくる。 「次の角を右」言われるままに方向指示を出そうとすると、からかうようにワイパーが揺れた。焦って止めようとすると今度は窓がゆっくりと開く。「ついでにラジオもつけるか」七美がラジオのスイッチを入れると、岩田が大声で叫んだ。「あほか、冗談だ」 ようやく教習所に帰り着いた時には、すでに岩田の声は枯れかけていた。 車が止まると、岩田はポケットから手帳を取り出し、名前がたくさん書かれたページを開いてみせた。 「俺はこれまでこれだけの生徒を教えてきたけど、あんたの運転が一番ひどい」 去っていく岩田の後姿を、七美はぼんやりと見送った。 「次に付き合うなら、おまえみたいな子がいいな。素朴でのほほんとしてて安らぐから」そう言っていた圭吾の顔が浮かんでくる。 うそつき。七美はつぶやいた。視線が宙をを漂う。教習ノートに目を留めると、補習のマークがきれいに整列していた。今しがた書き込まれたばかりの文字がかすかに滲んでいる。 「ばかだなあ・・・」七美は消えそうな声で言うと、そのままノートに顔をうずめた。 新緑が紅葉にかわった頃、七美はようやく最終試験に合格した。 自動車学校に戻り、ロビーで真新しい免許証を眺めていると、志穂が近寄ってきた。 「何さえない顔してるの。せっかく合格したのに、嬉しくないの」 「そんなことないよ。これでやっと岩田のおっさんから開放されるんだもん」 「あっ、そうそう岩田といえば。この前学科で、ある生徒の話がでてね。その人、卒業検定中に百歳くらいのおばあちゃんに道をふさがれて、三十分も立ち往生したんだって」 「だって、あのおばあちゃん、ぜんぜん車に気付いてないんだもん。背後でいきなりクラクションをならしたら、びっくりしてひっくり返っちゃうかもしれないじゃない」 志穂はしばらくきょとんとしていたが、やがて、なんだこれも七美だったの、と言って首をすくめた。 「岩田の奴、また人のことを笑いものにしたの」 「ううん、いいドライバーになるって」 「えっ」七美は驚いて聞き返した。 「いいドライバーになるって言ってた。運転で一番大切なのは、高度な技術じゃない、思いやりだって」 「ふうん」 七美は事態がうまく飲み込めずにうつむいた。だがしばらくして顔をあげたとき、そこには晴れやかな笑みが広がっていた。 夕方の光とともに、七美の心の中に暖かいものが流れ込んできた。新しい車でどこまでも走ってみたい。七美は思った。そしてサイドシートに並んで座る誰かの姿を想像して幸せな気分で目を閉じた |