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 藩政期に、金沢の東、戸室山より切り出した石材を金沢城まで運搬した通路に当たっていたことから石引通りといわれるようになりました。
 戸室石が金沢城築城のため最初に切り出されたのは1593年、藩祖前田利家の時代で、その後市内大火の際等、城内再建の度に切り出しと運搬が繰り返されました。はじめは大勢の住民が動員されて修羅を使用して運ばれましたが、幕末頃になると四輪の地車といわれる運搬車が使われて効率化されるようになっていたという事です。

 運搬経路は、戸室山北麓の採掘地・田の島から山を降り、田上を経由して野坂(旭坂の南にあるが、今ではほとんど通行されていない)から小立野台地に上がり、上野から亀坂、石引通りを通って金沢城に至るというものでした。現在9月に行われる小立野地区最大のお祭り・御山祭りでも、旧上野町からこの経路をたどって子供たちが石を引いています。
 ところで、石引町の町名が文献にに表れるのは1696年で、最初の石引き作業から約100年後にしてその町名が定着したことになります。

 江戸時代、石引通りに沿う土地には、加賀藩の上級家臣の上・下屋敷や足軽の組地といった武家地、藩主前田家と関係の深い大寺院とその門前町がみられましたが、時代が下って経済活動が活発化するにともなって、商家が増加していったようです。
 文化8年の金沢町絵図・石引地区版によると、米屋・八百屋・魚屋・味噌屋・醤油屋、呉服・たばこ・小間物・紙・薬種・生菓子・酒造・雑穀・豆腐・荒物・下駄・金物・質屋・炭・髪結い・鍛冶・医師・飴・綿・油・茶・風呂屋など、およそ江戸時代に考えられるほとんどすべての商家が揃っているといえるほどで、ある意味、現代の石引通りより多彩な町の姿を見せていたように思われます。

 藩政期以来、商人の町として栄えてきた石引は、明治に入ってしばらくは、維新の波に乗り遅れて地盤沈下した金沢自体とともに衰えたが、やがて第7連隊や第9師団という旧陸軍部隊が城内に設置されると息を吹き返し、戦後はその城内に金沢大学が置かれることによって、学生たちの生活の場としてつい最近まで発展を続けてきました。

 平成に入ると、金沢大学が角間に総合移転され、学生たちの姿がめっきり少なくなりました。長年、城の中の大学として親しみもまた誇りさえ感じてきた金沢大学も、今では山の中の大学としか見えず、その大きな個性を自ら放棄するという姿勢には疑問を感ぜざるをえないという市民が多いと耳にしています。金沢市は確か文化学術都市を標榜し、町の中心の城内に大学が位置する事がその象徴だと市民は理解してきたはずでしたのに・・・。
 100年近くも文化教育ゾーンとしてその役割を果たしてきた小立野地区も、その性格を大きく変えざるを得ない時期にきているようであります。