石引通り                                                          戻る 
加賀藩主前田家の菩提寺として歴代藩主の位牌を祀る宝円寺は、昔は近くの谷から水がドドッと流れ落ち、川岸の木をメキメキとなぎ倒していたからという言い伝えをもつ百々女木町(どどめきちょう)、町名変更後の現在の宝町の一番奥にあります。

 藩祖、あの「利家とまつ」の前田利家公の帰依を受けて寺領220石を寄進され、能登の国から初めは兼六園の東隅の地に、その後元和6(1620)11600坪という広大な土地を賜って現在地に移転しました。曹洞宗のこの地域を代表する寺院として大いに栄えてきましたが、明治元年に火災にあってほとんどの建物が焼失、その際に造営された仮本堂、庫裏が現在の宝円寺で、当初はその寺名が町名に採用になるほど宝町の大半を占めていた境内も徐々に縮小し、現在の広さに落ち着いたということだそうです。

 霊殿には歴代の位牌、墓地には前田家一族10名の墓、境内には利家公の御髪を祀る五影堂があり、本堂に1丈2尺の木彫大尊像2躰が、また北陸十三番観音霊場御本尊十一面観世音菩薩が安置されています。

 この宝円寺の墓地で、大正三年(1914)の春、俵屋宗達の墓が発見されました。宗達といえば琳派の初めで、国宝風神雷神図屏風は彼の手によるもので、本阿弥光悦とのコンビは日本美術史上の一時代を築いたという人物で、日本美術に関心のある方なら必ずやその名を知る、どんな日本美術の本にも必ずや1章が割かれるという超大物です。私が習った限りでは生没年不詳だった、従ってどこで亡くなったかは不明だったはずなんですが、何と金沢に、それも宝町にお墓があったんですね。都の京都で名声を博し、仕事の依頼も絶えず弟子も大勢抱えていたという大物絵師のお墓が何故金沢にあるのか、発見当時から疑問視されてきたようですが、一時期、木倉町(片町2丁目)に彼の工房があったらしいということもありますし、そもそも金沢でなくなったという説もあることですので、金沢にお墓があってもおかしくないんだそうです。いや、確かに宝円寺にあるのですから。

宝円寺とは1kmと距離のないところに金沢美術工芸大学がありますが、その近さは運命的であるとしか思えず、宗達がまるで美大生を見守っているかのようで、美大生の多く生活する我々の地区にふさわしい話と思います。


最後の仇討ち
 この宝円寺のそばに、藩政期に下級武士たちの与力の多く住んだ町として旧与力町があります。幕末期、困窮した与力達は、その原因が急激な政治改革にあるとして、改革を進めた藩老本多政均を金沢城内で暗殺、それに対して本多家の家臣が、一人生き残っていた暗殺犯をこの与力町の地で討ち果たしたという事件が記録に残っています。これが加賀藩最後の仇討ちということらしいのですが、宗達のお墓といい、仇討ちといい、私たちの住む地区は本当に歴史の詰まった地区なのだと実感します。