ホットコーヒー                                 

 
 雨は夜になって雪へと変わった。私は店の戸締りを確認したあと、向かいの喫茶店に足を向けた。後ろで妻が、先に上がっているわ、と言った。

 道路を渡り、ドアを押すと、カランコロンとチャイムが鳴った。閉店時間を過ぎた店内は暗く、テレビの前の唯一明かりのある場所に老人が一人で座っていた。いつも通りの光景だ。

 「小林さん、こんなところでテレビなんか見てないで、上で休めばいいのに」

 小林氏は私の言葉には答えず、黙ってコーヒーを炒れてくれた。五百円玉を差し出すと、いらないと言う。私はそれを机の上に置いた。

 「君を含めると今日の客は三人だ」

 「不況ですからね。うちだって客足は全盛期の半分以下です。この商店街も長いこと地元に根付いた商店街として頑張ってきたのに・・・。何しろ人がいないんだから」

 その後私たちは1時間ほど閑談した。小林氏の毒舌がコーヒーの湯気に溶けていく。近所の主婦とゴミ出しでいがみ合っていること、布団屋の主人の自慢話が鼻持ちならないこと、風呂屋で、話し好きの元高校校長につきまとわれて困っていること。久々に息子に電話をしたら、海外に飛ぶ直前だったこと。「家族でイタリア旅行だと。嫁さんの両親も一緒らしい。ま、わしゃ、頼まれても行かんがね」

私は彼の話に、笑ってあいずちをうっていたが、頃合を見計らって立ち上がった。

 ドアを開けると外は一面雪景色だった。何気なく振り返ると、小林氏がテレビのリモコンを操作していた。その背中が丸まっている。いつだったか私が、「奥さんが亡くなって以来一人で寂しいでしょう」と聞いたとき、彼は、一人は気楽だと答えた。わしが泣いたのは愛犬のロビンが死んだときだけだよと。

 

 それからも、私は相変わらず週一ペースで彼の店に足を運んだ。

 異変が起きたのは二月も半ばの寒い日だった。私がいつものようにドアを開けると、テレビの前で小林氏が倒れていた。私は慌てて駈け寄ると、彼の体を揺さぶった。

 救急車がやってくると、近所はちょっとした騒ぎになった。運ばれる直前に、意識を取り戻した彼は、私に向かって囁いた。「わしはもうこの店に戻ってこないかもしれん」

 数日後見舞いに行ったとき、「わしはガンらしい」と小林氏が言った。私が何も言えずにいると彼は続けた。

 「うちのバカ息子のやつ、きのうやっと見舞いにきたと思ったら、俺は金は出せないから、店をたたんでその金で治療費を払えと言いやがった」

 その口調があまりにもあっけらかんとしていたので、私はいつもの毒舌トークの続きを聞いているような気分だった。こうなったら、意地でもあいつの世話にはならん、と息巻く彼を見ていると泣きたいのか笑いたいのか分からなくなった。

 向かいの喫茶店に久しぶりに明かりが灯ったのはそれから数日後のことだ。私は昼食を早めに終えて訪ねていった。ドアの向こうには小林氏の息子が立っていた。

 「今日は開店しているわけじゃないんです。店をたたもうと思って整理に来ただけなんです」と彼は言った。

 「小林さん、そんなに悪いんですか?」

 「いや、ただの栄養失調ですよ」

 私は驚いて、病院での小林氏の言葉を伝えた。すると、彼は豪快に笑った。

 「おやじはそれくらい言わないと聞いてくれませんから。前から店をやめて一緒に暮らそうって言ってるんだけど、つっぱねられて。店は絶対閉めないって言い張るんですよ。どうせ客なんてほとんどこないのに」

 彼は不慣れな手つきで湯を沸かしながら続けた。

 「一人でろくなもの食べないから栄養失調なんかになるんですよ。いい機会だから今度こそ、いうことをきくよう説得しますよ」

 私は机の上に置かれた花束に目を落とした。このあとこれを手に、見舞いがてら説得に行くのだろう。彼は私の視線に気付いたらしく、カサブランカです、と言った。

「母の好きだった花なんです。この店の名前の由来です。父の定年後二人で店を持つのが母の夢でした」

私は店がオープンしてすぐに、彼女が亡くなったことを思い出した。

彼が私の目の前にコーヒーを置いた。それはとても暖かく、そしてとても薄かった。

私はもう一度小林氏のうまいコーヒーが飲みたいものだと思ったが、結局何も言わずに立ち上がった。そして、カップのかげにそっと五百円玉を置いて店を出た。