心のこり


 ベッドの傍にある机の上でカタリと音がした。目立たない位置に立てかけてあった写真立が倒れたようだ。紗英は暗示を解かれたように、目を覚ました。その瞬間、カーテンの隙間から漏れる月明かりが、懐かしい輪郭を浮かび上がらせた。

「あれ、おじいちゃん。久しぶり」

 心の奥を淡い風が吹き抜ける。目の前の光景が、まるで以前から予想していたことのように自然に心になじんだ。

 「のんきやな。かれこれ十五年ぶりやぞ」

 「へえー、もうそんなになるんや」

 紗英は布団の上に身を起こし、改めて薄暗がりに目を凝らした。祖父は文字通り、枕もとに立って、紗英を見おろしている。

 その姿を隅々までなぞっているうちに、紗英の心に安らかな気持ちが広がっていった

 しばらくの間、二人で家族の近況について語り合った。その間祖父はめまぐるしく表情を変え、熱心に質問した。紗英はそんな祖父の姿を横目に、この人はこんなにも饒舌だったのかと内心驚いていた。

 ひととおり話し終えたところで、祖父がさりげない風を装って聞いた。「ところで、今年の墓参りはどうなっとるんや」

 紗英は瞬時に祖父の突然の訪問のわけを悟った。確かに、一時期あれほど熱心に手を合わせに行ったのに、ここ最近はほとんど足を向けていない。

 紗英が言いよどんでいるのを見て、祖父が続けた。

 「紗英はそもそも、墓参りの意味を誤解しとるぞ。墓参りは七夕とは違うげんぞ。わしら、感謝されて敬われるはずの日になんで次々と願い事を聞かされんなんがや」

 「だって、あの頃は藁にも縋る思いやったから」

 「漱石さんにまでお願いしたやろ。わしゃそのことであの人に嫌みを言われたぞ」

 「ああ、あれはちょっとした戯れや。友達と東京に遊びに行ったとき、たまたま池袋の近くに夏目漱石のお墓があるってきいてん。それでせっかくやから探してみようってことになって。その時に『夏目漱石のお墓は一体どんなんやろ、有名人に限って意外にお墓は質素なもんやよ、逆にこんな立派なお墓もあるけどね』って言いながら指さしたお墓がまさに漱石のお墓やってん。それぐらいすごかってん。明らかに家のご先祖様よりは頼りになりそうで、気付いた時にはもう手を合わせとったわ」

 祖父はしばらく呆れ顔で首を左右に振っていたが、やがて昔のままの人なつこい目で微笑んだ。そしてその笑顔が消えないうちに静かに背中を向けた。たまには顔を見せにきなさいと諭す声が緩やかに闇に溶けていく。

 「おじいちゃん」

 紗英は思わず呼びかけた。

 「おじいちゃん、あっちの世界ではちゃんと歩けるんやね。それにスムーズにしゃべれるんやね」

 その言葉に祖父は一瞬動きをとめた。紗英は必死で続けた。

 「おじいちゃん、ずっと気になっとってん。あの時何が言いたかったん。十五年前、私の顔を指差して一生懸命何か言ったやろ。あれが最後の会話になるってわかっとったら、理解できるまで何百回でも聞きなおしたんに」

 生前の祖父は小脳に障害があり、足が動かず、会話も不自由だった。祖父の不明瞭な言葉を何度も聞き返すのが億劫で、紗英はいつも生返事でお茶をにごした。祖父が亡くなる前日も同じように聞き流した。

 「ああ、あの時か・・・」

 紗英の言葉を遮って祖父が言った。

 「あの時は、こう言ったんや。ほっぺたにごはんつぶついとるぞー」

 紗英が目を見開くと、祖父はおかしくてたまらないといった表情で続けた。 

 「しかも、かぴかぴになっとるぞー」



 翌朝目覚めると、きのうまでの体のだるさが嘘のように消えていた。朝がきたことを嬉しいと感じたのはどれくらいぶりだろう。紗英は勢いよくカーテンをあけると、塗りたてのペンキのように青い空に向かって手を伸ばした。その手の先で一枚の写真が揺れた。倒れた写真立から抜き出したものだ。

 おじいちゃん、これが、漱石さんの力まで借りて手に入れた彼やよ。私の力不足でつなぎとめられんかったけど。

 紗英は能を演じるように優雅に指を広げた。するとどこからともなく風が吹いて写真を空高く舞い上がらせた。弧を描いて飛ばされていく写真を見送りながら紗英は考えていた。

 今度の休みは久しぶりにお墓参りに行こう。そしておじいちゃんにお礼を言おう。彼が去った後もずっと消すことができなかった恋心を成仏させにきてくれてありがとう。