帰省           


 「知世子、おばあちゃんに挨拶してきたら?」

 台所から母の声がした。冷えた体がようやく温まりかけてきた頃だった。私が反応しないので、母はもう一度同じ言葉を繰り返した。

 「んー」

 曖昧に返事をしてこたつから這い出ると、凍てつくような冷気が体全体を包んだ。寒い、と言いながら台所に行き、鍋の中を覗き込む。すると、早くいけ、と母が睨んだ。仕方なく台所を出て、トイレに向かう。できるだけゆっくりと用をたすと、今度は客間に足を踏み入れ、とりあえず部屋一帯を点検する。一年ぶりの実家は、ストーブが新しくなったこと以外には、とりたてて大きな変化はない。

 さんざん時間をかけて祖母の部屋の前まで行き、ノックをしようと片手を上げた。その時、扉のむこうで床がきしむような音がきこえて、一瞬心臓が高鳴った。しばらくそのままの状態で立ち尽くしていたが、ふいに哀しみに似た感情がこみあげ、その瞬間、無意識のうちに振り上げた手を下ろしていた。私は静かに後ずさると、ゆっくりとその場を離れた。居間にもどり「おばあちゃん、まだ寝とったわ」と台所の母に告げる。再びこたつに潜り込もうとしたとき、旅行鞄が開けっ放しになっていることに気付いた。私は鞄のふたをしめて、それを、土産物の袋と一緒に隅に寄せた。

 部屋の隅には、古いタンスが置かれている。もともとは祖母の部屋にあったものだ。祖母が何とはいわずに口に入れるようになり、それを防ぐため、家具もほとんどを居間に運びこんだのだ。タンスの上には、やはり祖母の所有物と思われる古いノートが置かれている。何気なく手にとると、そこに震えた文字で「カシワ」「ツクダニ」「シュウクリイム」「チョコ」と書きつけられていた。四、五枚めくってみたところ、どのページにも同じ文字が並んでいる。買い物メモのようである。母によると、まだ文字が書けた頃、毎日のように祖母が書いていたものだという。

 かしわは祖母の好物であり、佃煮は祖父の好物であった。シュークリームは私がいつも食べていた。チョコは・・・、チョコは誰の好物だっただろうか。

 「知世ちゃんが帰ってくるのを首を長―くして待っとったよ」祖母がそう言わなくなったのは、いつ頃からだろうか。初めにおかしいな、と思ったのは三年ほど前だ。久しぶりに帰省した孫を見て、祖母はしばらく考え込むような顔をした後「ああ、知世ちゃんか、お帰り」と実に淡白な口調で言ったのである。それまでの大歓迎ぶりと比較して、あまりにそっけない出迎えに、肩透かしをくわされたような気分であった。

次に帰省した時祖母は、「どこからきたの」と私に尋ねた。「東京から」そう答えると、自分の孫も東京で働いているのだ、と言って微笑んだ。今ではもう、私の名前を呼ぶこともない。

再度胸に蘇った鈍い痛みを振り払うようにして、更にページをめくっていくと、あるページに、「よしこさんに電話」という文字を発見した。よく見ると、他にもところどころに覚書のような文字が見受けられる。再び母に尋ねると、買い物だけではなく、忘れてはならないことなどは、その都度メモしていたようだ、という。祖母は自分の記憶が曖昧になりつつあることを自覚していたのだろうか。

 「忘れてはならないこと」ふと、その言葉が私の胸にひっかかった。

 「お母さん、おばあちゃんはいつも同じものばっかり買ってきとったん?」

 「そうや、いっつもかしわと佃煮とシュークリーム。冷蔵庫にびっしりやった。まあ、今では外にでることもほとんどないけど」

 母が言い終わらないうちに重ねて尋ねた。

 「チョコも?」

 「チョコ?チョコレートのこと?いや、おばあちゃん、そんな甘い物食べんやろ」

 それを聞いてノートを持つ手が思わず震えた。色あせた文字がそれに合わせて視界で揺れた。体がみるみる熱を帯びてくる。

 「あんた、そんなにストーブに近づいたらやけどするよ」

 母の言葉で我に返ると、私はノートを掴んだまま、祖母の部屋へと走った。勢いよく扉を開けると、ゆっくりと祖母が振り向いた。その目が不思議そうにこちらを見つめている。

チョコ、ちよこ、知世子。祖母がその文字を書き付ける姿がそこに重なったような気がした。

 「おばあちゃん」

あとに続く言葉がみつからなかった。祖母は相変わらず無言でこちらを見つめている。

 「ただいま」

 それだけいうのが精一杯だった。