イチョウ
                

 「そんなわけで、旅行の話はとりやめになったから」

 ひとしきり話し終えて一息つくと、洋子は受話器を持つ手を少し緩めた。電話のむこうで母がふうん、と相槌を打つ。

 「でもさあ、まさかこんなにあっさり断られるとは思わなかったな。おまけに、そのあと世間話をはじめようとしたら、これから課題をやらなくちゃとかなんとか言って、有無を言わさずガチャン、だよ。まったく、なんて友達がいのないやつなの」

 いつまでもぶつぶつと文句をたれ続ける洋子を母が制した。

 「そのさっちゃんて子、本気で旅行の相手を探してたのかねえ?」

 「そうでしょ、だって康子がそう言ってたもん。安田君にまで声をかけてたらしいからよっぽど行きたかったはずなのよ」

 「安田君て例の?確か何人かでこっち方面に旅行にきたことがあったわよね。見た目はぜんぜんふつうの男の子だったけど」

 「そう、その安田君。まあ、確かに彼なら一緒に旅行したって一応問題はないわけだけど、でもほら、世間体ってもんがあるじゃない?」

 「それで安田君はなんて答えたの?」

 「せっかく海外へまで行くんなら、やっぱり恋人とじゃないといやだって。恋人が出来てからにしたいって」

 「恋人って、男の?」

 「そうでしょうね、やっぱり」

 それを聞くと母はしばらく黙り込んだ。何事かを考えているようだ。

 「まあ、とにかく安田君にいろいろ言われてるうちにさっちゃんもすっかり出かける気がなくなっちゃったらしくて、わたしが電話したときにはもうぜんぜん取り付く島もない感じなの。ああ、もうその話はいいから、なんて言っちゃって。それどころか、最近勉強が面倒臭いから大学なんかやめて実家に帰ろうかな、なんて、本気とも冗談ともつかないこと言ってさ。帰ってお見合いとかするのも悪くないかも、だなんて、訳わかんないよ。旅行の事なんてぜんぜん触れようともしないのよ。しばらく電話かけるのやめようかな」

 すると、黙って聞いていた母が口を挟んだ。

 「訳わかってないのは、あんだだよ。友達がいがないのもあんただね」

 母の思いがけない言葉に洋子は口を尖らせて反論した。

 「なんでよ。ひどいのはさっちゃんでしょ」

 「さっちゃんは、誰かと旅行に行きたかったんじゃないよ、安田君と行きたかったんだよ」

 「まさか、なんで?」

 「なんでって、女が男と一緒に旅に出たいと思うのに、どんな理由があるっていうの」

 「だって、安田君はああいう人だよ。さっちゃんはそんなこと、昔から百も承知だよ」

 「わかっててもどうしようもないことだってあるでしょ」

 「だって、さっちゃん、ずっと勉強一筋で、男になんか興味ありませんって顔してたよ」

 「そのさっちゃんが、大学をやめたいって言ったんでしょ?お見合いしてもいいなんて、女がそんなこと言うのはどんな時か、それくらいあんたにも分かるでしょ?」

言われてみればそうかもと思ってしまうが、それにしても、母の言っていることは本当だろうか?大学へはいってからの四年間のさちこの様子を念入りに思い返してみる。だが、なにひとつ思い当たる節はない。

 「そんなはずはないと思うけどなあ」 

 「あんたはまだまだ子どもだね。もしまた電話がかかってくるようなことがあったら、さりげなく元気付けてあげなさいよ」

 洋子は腑に落ちない思いを残したまま受話器を置いた。そして電話の前に座ったまま、三年生のときのある光景に思いをはせた。


 校庭の銀杏が視界全体を金色に包み込んでいたある日。やわらかな陽を浴びて、銀杏のそばのベンチで、洋子とさちこと安田が話していた。

「俺は高校の時、写真部だったんだ。こんな素晴らしい黄葉を見るとまた写真がやりたくなったな」

「そん時は私がモデルになってあげるよ、黄葉をバックにした私もなかなかのもんじゃないかと思うわ。いつでも、どこでも同行するよ。」

「モデルはやっぱり男のほうがいいなあ。」

「さちこ自信があるんだ。私だって捨てたもんじゃないと思うけど、肝心な人は見向きもしてくれないのよ。落ち葉の降り積もった道を、並んで歩くことができたら、それだけで幸せなのにな」

「そうか、洋子もいろいろあるんだな。でもおまえはまだいいよ、おれなんかどんなに好きになったところで、かなう見込みなんてほとんどないんだから」

 あのときの安田の言葉をさちこはどんな想いできいたのだろう。

 安田の心に共鳴するように、はらはらと降り注いでいたイチョウの色が、洋子の脳裏に鮮やかに蘇った。