オフィスガーデニング


「もうそろそろ芽が出てもいい頃なんだけどなあ。」
 みちるは鉢植えの土に霧ふきで丁寧に水をふきかけながら考えた。その時後から声をかけられた。

「おう、飯田さん、朝から精が出るねえ。そのイチゴ、収穫はいつ頃になるのかな?」

「やだな、川野君、これはイチゴじゃなくてコスモスの種だよ。」

「えっ、そう?俺はイチゴって聞いたけどなあ。」
 川野隆志の笑顔は朝の気だるい空気の中にあっても、いつもにごりがなく爽やかだ。

 「栽培っていえば、小学校のころ、毎日日記をつけるっていう宿題があって、それが俺には苦痛でね。毎日話題を考えるのが本当に面倒になって、たまたまその頃道端で売ってた四ツ葉のクローバーの種を見かけて、ああ、これだってひらめいたんだ。それで、その日からクローバーの観察日記を書きはじめたんだよ。植えてもいないクローバーが日記の中で発芽して育っていって、結局それだけで3ヶ月くらい時間をかせいだんだけど、いよいよ四ツ葉になったというところで、突然先生がそれをぜひ見てみたいと言い出しちゃって。あのときは、さすがの俺もあせって近所の公園で必死に探したんだ。だけど。日がくれるまで粘ったにもかかわらずどうしてもみつからなくて、それでどうしたと思う?」

「素直に白状して謝った?」

「いや、一日で全部枯れたことにしちゃったんだ。でも、その日の先生のコメントには、普通に、そっか、残念だなあって書かれてて、大学を出たての若い女の先生だったし、俺しばらくは本気で、ああ、ばれなくてよかったと思ってたよ。」

「馬鹿だね。昔からそうなんだね。」

 二人が鉢植えを前にして、声をそろえて笑っているところへ上司の平田正人が出勤してきた。

 「おはよう。そのイチゴそろそろ芽がでてきたかい?」

 「もう、平田さんまで。これはイチゴじゃありませんってば。」

 「えっ、イチゴじゃないの?吉野さんが育ててるやつだろ?」

 平田の話によるとここに栽培されているのはワイルドストロベリーといって、花が咲くと幸せになるという言い伝えのある、今若者に大人気の植物であり、同じ課の吉野女史が毎日人目をはばかるようにして水をやっているともっぱらの噂だという。この話題の出所は、吉野女史の真向かいに座っている中村女史で、彼女は吉野女史が藁にもするような思いでこの花を育てているという意味のことまでいいふらしているらしい。

 やれやれ。みちるは心の中で大きくため息をついた。よくもそこまで話をでっちあげたものだ。半ば呆れ、半ば感心しているところに今度は当の吉野女史が現れた。そして、自分の席に荷物を置くと、慣れた動作で紙コップに水をくんできて、驚きの表情で見つめている3人の視線を気にもとめずに、土の上にばらまきはじめた。

「吉野さん、あの、もしかしてよく水をやっていただいているんですか?」

みちるが遠慮がちに質問すると、吉野女史は無邪気に微笑みながら答えた。

「ええ、このコスモスが早く育つといいなと思って。」

「それ、コスモス、ですよね?」

「えっ、だってあなたがそういって持ってきたんじゃないの、大丈夫?」

「いえ、そうなんですけど。でも、どうして吉野さんが世話を?コスモスお好きなんですか?」

 すると、彼女は微妙に眉をしかめて、少し声のトーンを落とすと、辺りの様子をうかがいながら答えた。

 「いやあね、そうじゃないのよ。もしこのコスモスが伸びてきたら、わたしと中村さんの間におけばちょうどいい『しきり』になると思って。そうしたらあの人の顔を直で見なくてよくなるでしょう。」

 それを聞いたみちるは、返す言葉を思いつかずにだまりこんだ。そばで平田が苦笑いしているのが見える。川野は聞いていないふりを決めこんだようだ。

 どうりで、芽がでないわけだ。要するに水のやりすぎなのだ。

 せっかく職場の雰囲気の緩和のために育てはじめたコスモスだったのに、まさか、新たなバトルの引き金になるなんて。

 拍子抜けして席についたみちるは、何気なく窓に目を向けた。ビルの11階から眺める空は今日も雲ひとつ無い快晴だ。この日当たりのよさをこれ以上に有効に活用する方法が他にあるだろうか。みちるは真っ青な空を見ながら、四ツ葉のクローバーの種は今でも売っているのだろうかとぼんやり考えていた。